今年は被爆70年にあたるので、基町のNさんに昭和20年8月6日の話を聞かせてもらった。にゃーすはまだ生まれていなかったので、ちゃんと聞いておきたいと思ってお願いをして訪問させて頂いた。
昭和20年8月当時は15歳だった。竹屋町に祖母、兄夫婦、私の4人で住んでいた。
女学校を勧められたが断って、トヨタに4月に就職し、あの日も千田町の会社にいた。みんなピカッと光ったと言うけど私は記憶になく、気づいたら会社が倒壊していて、社長も同僚もいなくなってどうなったか覚えていない。ケガもしていなかったし何ともなかったので、必死で外に出て逃げた。その時には、千田町も建物が倒壊していて焼け野原ではなかったが後から火が出て焼けた。千田小学校で祖母に会い、兄を探しに広島市内中を歩いたけどわからなかった。その時に出会った人は、やけどがひどくて顔がわからない、目が出ているような人が沢山いた。竹屋町の自宅に戻ると、大きな柿の木が焼け焦げていて、五右衛門風呂の釜、米を入れていた甕だけ残っていた。甕の中の米は真っ黒焦げだった。
福屋の前の銀行にいて、兄夫婦を探していたが見つからず、銀行にいつまでもいられないので広大のグランドで寝泊まりした。従妹にも会えたけど火傷をしてて、「水を飲ませたら死ぬので飲ませてはいけない。」と言われていたから飲ませなかったのに、自分で川の水を飲んで朝起きたら亡くなっていた。警察に届けたら自分達で火葬しろと言われ、火葬場なんてないから広大のグランドに瓦礫を集めて従妹を火葬した。食べ物もお金も何もないので、着物を売ってお米、果物、野菜に替えていたけど、警察に見つかって全部持って行かれたこともあった。うちは、祖母の貯金があったから1ヶ月3000円で生活をやりくりして、売家を1000円で買って竹屋町へ移動させることができた。まだ周りには1件も家がなかったけど、川べりには男の人がいる家は瓦礫の木、板で家を作っていたよ。今の中央公園の辺りだけどね。
うちは家の外に少し土地があったので、草木も生えないと言われていたのに野菜を植えたら野菜が出来てた。焼け野原になった後は、土地の区切りなんかわからないし、誰の土地かもわからないから、土地に住んだ者勝ちだった。そこで結婚したけど、祖母、子供を食べさせていかないといけないので、祖母が作った料理やおむすびを復興工事をしている所に行って売ったりもした。あの時には生きていくのに必死だった。
もう、はっきり思い出せんこともあるけど、原爆投下後にすれ違った人達の姿は忘れられない。あんなことは、2度と起こったらいけん。」
戦争を知らない私達が、戦争の話を聞いて知っておくことも大事なことだと、改めて感じた夏だった。